下日出谷の大規模商業施設の始まり

昨日アップするつもりが、パソコンがフリーズして、送れませんでした。
下日出谷東の土地区画整理事業、経過を話せばとても長くなります。まず、初代理事長が、ブローカーと組んで、すべての業務は1社に請け負わせると、勝手に印鑑を使用して契約してしまったのが、私が議員になって2期目、上原市長の時代です。そのことは、上原市長が調査を命じ、公証人役場の契約を破棄し、理事長を交代させました。ここはかなり迅速な処理だったと思います。
その後の組合事業は、請け負ったコンサル・昭和のバブル計画。高低差も地形も無視。道路をまっすぐ、窪地を埋め、高台を削り、大規模な地権者(農家)の土地を有利に売る計画とともに、小規模な団地や、住宅街も区画整理エリアに取り込み、100㎡そこそこの地権者にも負担を求めるという、理不尽なものでした。
桶川の区画整理は、非民主的な組合運営の訴えが、一向に改善されませんでした。神明地区では、マンションの地権者まで負担が重くのしかかり、減歩の代わりに一世帯300万円近い負担を強いられるという、これも理不尽な計画。これは、後にマンションに大規模地権者の減歩率を適用した結果、容積率が不足する既存不適格を組合が生じさせることとなり、見直しが行われ、小宅地に準じた扱いとなって解決しました。
あのころは、地主がバブルで土地を売りたがり、自分たちの利益が優先した計画だったと思います。ところが、バブルがはじけ、シナリオが崩れ、借金が出来なくなり、理事たちの債務保証そのものも危ぶまれる時代となったわけです。幸いにも、神明は駅に近かったこと、エリアが狭かったことで、下日出谷西は、早期に土地が売れたことで、計画通り終わりました。
しかし、下日出谷東、上日出谷南、坂田西はそうはいきません。それぞれの特殊事情を抱えながら、見直しを実施して来ました。上日出谷南については、後日また書きたいと思いますが、下日出谷東については、考えられない見直しをやったのです。
当初の計画
桶川に家を求めて引っ越してきた人たちにとって、ローンを抱え、さらに移転、こんな計画はみんな反対でした。900件の地権者のうち、630軒が移転する計画です。玉突き換地に飛び換地、これは大変なムダと住民への負担がかかると、参議院国土交通委員会でも取り上げてもらいました。当時の大臣は、「住民が反対していたらできないでしょう」と、当然のことのように言いました。
何度も市長とも話し合いが行われ、「反対すると、もっとひどいところに換地するぞ」といった職員は飛ばされ、市長も問題意識を持っていたのですが、結局仮換地指定が行われ、計画は一切変えられることはありませんでした。その後は、98人の審査請求が出され、2007年には88件の審査請求が残り、県も頭を痛めていた計画です。住民にとっては精神的にも経済的にも大変な負担で、何人も病気になり、区画整理は何と犯罪的に事業なのだろうと、私は区画整理法の勉強をはじめました。
土地区画整理協会への委託
そのころ、某公明党の国会議員から市に話があったといいます。前後はわかりませんが、桶川市は(財)土地区画整理協会へ、事業見直しを委託しました。そのいきさつも不可解なのですが、そこからこの悲劇と隠れた計画は始まります。
この続きは夜書きます。

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