どこまで壊れる桶川…寄付の公表の意図するもの

1ヶ月以上、あいてしまいました。国会の動きがあわただしく、加えて区画整理の裁判に、庁舎契約解除金返還訴訟と、急がしすぎました。
こんな事では、誰かが喜んでしまうので、と思いますが、体は二つ無く、自分を切磋琢磨しながらやれる事を精一杯やっているという生活をしています。
しかし、この間、実に憂うべき出来事が2件ありました。
市制施行40年と銘打った花火大会の寄付と、市民まつりの寄付の事です。前者は秋空の河川敷を観覧席にして、寄付を集めに集めた結果、お金が集まりすぎたとか、3000万円になったとか。多くの方から、寄付に対するブーイングを聞きましたが、それでも皆さん、寄付をなさったのでしょう。誰かがすると出さざるを得ない、と出した方。おねだりのような寄付集めも、再度のお願いもあったと聞きます。そして、広報と一緒に配られた花火大会のパンフレットには、寄付者の名前と寄付金額がズラーっと、書かれていたのを皆さん、ごらんになったと思います。
私は、これを見てぞっとしました。実行委員会形式で市が直接やらない形をとったにせよ、市の予算も投入しての公的なイベントです。高額寄付者のリストには、市と取引関係のある業者がズラリ。まるで寄付をしなかった者や少額の寄付者にあてつけるがばかりの雰囲気を感じとったのは、私ばかりではありません。
地方財政法には、以下の条文がある事をご存知でしょうか?
————————–第4条の5 国は地方公共団体又はその住民に対し、地方公共団体は他の地方公共団体又は住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、寄附金(これに相当する物品等を含む。)を割り当てて強制的に徴収(これに相当する行為を含む。)するようなことをしてはならない。————————–
この花火大会が、不況の現下にあって、どのような効果や市制施行の記念になったのかは、わかりません。何を期待して寄付をしたのか、言及する気も起きません。ただ、もし多くの市民に歓迎される公的なイベントであるためには、地方自治体としての姿勢を見せて欲しいものです。お金の価値をどのように考えているのか、寄付をしない、できない市民をどのように考えているのか、これは、単なる花火大会ではないのですから。
市政施行40年を振り返り、これからの桶川をどのようなまちにしていくのか、少なくとも市のビジョンが表せるもので無ければ、夜空の花火で消えてしまう価値でしかありません。私は、これを企画した人達の心に聞いて見たい。桶川の将来をどう考えて、花火大会にしたのか。
ボランティアで、一生懸命手伝った人もいるでしょう。でもその人達がみな、寄付金額の公表をするやり方を是としたのでしょうか。そもそも、寄付というのは金銭的価値を超えて、賛同するからこそ寄付なのであって、金額を出したら出資のようなものです。つまり、寄付というペイに見合うものがあるから出す、という感覚を市自らが率先して醸成する事は、市民憲章にある「おもいやりと助け合いの心」「礼儀」を忘れているのでしょう。
何よりもまして、市が考えるべき事は地方自治法第1条の2「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」を忘れているのではないでしょうか。
もうひとつの寄付・市民まつりも
そして、市民まつり。その案内のパンフレットでも、同じ事が起きました。市民まつりに寄付をした方の名前とその金額がズラーっと、やはり並べられているのです。市民まつりは36回という歴史を持つもので、かつては寄付者を広告したりする事はありませんでした。それが名前を出し、次には金額を載せる。
ああー。桶川のまちは、金で動くまちなのかと、少なくとも自治体がそんな「まつり」を主導しているのかと、殺伐たる思いになりました。
これでは、高額所得者や、税を大枚収めている人が、大手を振るまちであると、認めているようなものです。お金持ちが偉いんだ、と子どもに教えているようなものです。
社会とはそんなものではありません。企業の社会的責任は経営学の基本、です。消費者がいて、自分たちに儲けが入ってくるのであり、飲食店だって、お客が来なければ売り上げになりません。第2次産業でも、エンドユーザーと、その製品が稼動する生産品を購入する消費者がいるからこそ、利益が上がるのです。
ゼネコンだって同じです。建物や道路を必要とする市民がいて、初めて仕事が来るのです。権力者にすり寄る事で仕事をもらうことが商売などと考えている人がいたら、それは社会の仕組みを知らない、社会から阻害された人間です。社会での自分の立ち位置を理解できず、手っ取り早く自分の利益を優先する者が、権力を握り、権力を乱用して市民の税金をかすめとる者がいて、それを是認するものがいれば、将来は見えています。
これからの不況と、グローバル化による自由貿易の波に、どうやって行政があるべきか、考えなければならない深刻なときに、寄付者の金額まで載せるまちの行く末をみんなで考えるべき時かも知れません。
たとえ、1円だって、もし寄付をしてくれたのだったら、「ありがとう」と言えるまちであって欲しいと、思います。寄付をしない人がいたら、その心を知り、認める心を持つまちこそが、ともに生きる=共生のまちです。
どうやら、小泉政権以来の新自由主義が桶川に巣喰ってしまったようで、弱肉強食が当たり前になってしまうと、福祉の切捨てがどんどん進みます。地方自治の目的に反する政治は「自治」ではありません。
職員も含めて、阻害された人間が政治をやると、こんな事になると、改めて思います。勘違い人間が桶川にはあまりにも多すぎる、価値観が壊れていくまちに改めて戦慄を感じました。
政治は人の生活を預かる仕事です。自分を捨てて、働くことです。だからこそ、哲学が無いと、その方向を見失うのです。

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