母の一粒の涙

一昨日、再び脳梗塞に
一昨日のことです。
母がリハビリ中におかしくなり、救急で、沼田の病院に搬送され、新たに脳梗塞が発症したと電話が入りました。
12月に脳梗塞で倒れて、上尾中央病院で治療とリハビリを続けていましたが、先月感染で肺炎になり、危険な状況からやっと脱出、その後かねてから希望していた群馬県の沢渡温泉病院に移りました。8日の火曜日です。そして、新たなリハビリを開始した直後のことでした。
足利の姉が先に飛んで行き、私は用事を済ませて午後10時半に到着。説明を受けてから集中治療室に入りました。
母は、右足をばたばたと動かし、点滴のついた右手は、ベッドの手すりに包帯で縛りつけられ、口には、酸素吸入のパイプと人工呼吸器。管がついているにも関わらず、頭をもたげる動作を繰り返しているのです。
普段なら、直ぐ疲れてしまう運動を繰り返し何時間もしている様子から、本人は大分混乱と恐怖で、異常なエネルギーが出て、自分の置かれている状況が呑みこめないのだとわかりました。
私は、しきりに動かす右足をさすりながら、「大丈夫。ここは病院で今点滴をしているの。こんなに動いたら、疲れてしまうし、直らなくなるよ。必ず直るから、私がついているから、大丈夫だからね。少し眠ってね。直すには静かに寝る方がいいんだよ。」
大丈夫だからね。と何回も同じことを言いながら、足をさすり続けました。15分か20分そうしていたでしょうか。
母は、やっと納得したらしく、静かになりました。
少し寝たほうがいいんだよ。に、ウン、と反応したと思います。
大丈夫たからね。・・・・右の目から涙が少しずつ膨らみ、やがて米粒ぐらいになりました。
私はその時、母の苦しみをあらためて感じ取りました。
誰もがいつかはやって来る死。向き合って、生きることの難しさ。そして、その人の生きかたがまさにこういうときに現れるのだと。
そして、今、母はかすかな安らぎを感じ取り、人に自分の命を委ねようと、悟ったのではないかと・・・・。
今まで、人に頼ることができなかった、と言うか、頼っても決して感謝もせず、弱音も吐かず、あごで私たちを使ってきた(振り回してきた)人です。
そうしなければ、生きて来れないほどの苦労と、孤独と、傷を背負ってきた人生なのです。口を開けば、家を乗っ取った人の話、財産を掠め取った人の話、家族を養うことが出来なかった父の話、家を乗っ取られて漁夫の利を得た人の話、公正な裁判がされなかった話、詐欺にあった話しなど・・・・・常に彼女は被害者でした。
極めつけは、赤子(私)から引き離されて、狂気の女と扱われ、父の家族から精神病院に入れられたことです。裸足で板塀を破って逃げだし、家に戻ったのですが、その後も苦難は続くのです。
熊谷の警察署長が聡明な人で、母が正気であると判断して帰る事ができるようになったという話。小説に書いて欲しい、と常々言っていましたが、いつか実現しなければと、思っています。
母は、私の人生の師です。老いと病を突きつけられ、なおかつ生きようとする姿に、様々なことを考えさせられます。何かにつけて、その時の記憶がトラウマになって表れ、多分縛られたベッドでも思い出したのでしょう。傷ついたトラウマが、人の生活や心をどれだけ壊していくものか、人の尊厳がどれけ大切なものか、それを損なう社会や人々も又、損なわれていたり、屈折して育ったり・・・・人はとてももろいものです。
庭を掃いていても、草をむしっていても、「人はどう生きるべきか」常に現実を突きつけられながら、思考しています。
今は、人は死ぬために生きる、精一杯生きてこその死、と思うのです。
だから、もう少し頑張って見ようと思います。
涙を流しても、報われる社会のために・・・。
今は、姉が毎日行って貰っていますが、私も早く行かねば、と焦りつつ、やらねばならないことが山積み。
今日も裁判資料の作成に、徹夜になりそうです。そんなわけで、談合の話も書きたいのですが、もう少しお待ちください。

  • URLをコピーしました!
目次